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ベイダー卿へのオマージュ 1 [生活]

わずかな収入源である非常勤講師をしている学校で、「シナリオ・演出」の講義をしている。先週から3回にわけて、StarWarsシリーズの分析と解説をおこなっている。話をするのにも、限られた時間でどこをどう教えるかを選択するためにも、今一度シリーズをみなおさなければならないということで、全六作および、メイキングを全部二度ずつみて、しかも、脚本も読んだ(ネットでみつけた)。

父の影響をもろにうけたのが小学生の娘で、私のあとを追って、まずは1977年に始まった3部作を、毎日一作ずつ、ヘッドフォンをして一人で寝る前に見ていた。月曜に4.火曜に5、昨日はなしで、今日は6をみていた。

その娘がさっき涙をぼろぼろ流しながら私の仕事場にやってきた。
「おわった・・」
「どうした?」
といったら
「ダースベイダーがかわいそう」といってわっと泣き出して、だきついてきた。

非常に感受性の強い娘ではあるのだが、一人で世界に浸って4-6を見終わったことはたいしたものだと思う。こわかったり、つらかったりして見たくない場面も多いはずだ。集中してみていたから、世界にはまりこんでしまったのに違いない。
しかしながら、4-6を見た段階で、この作品のメインテーマがただの「勧善懲悪」でないことに気づいて涙を流すとはおそれいった(親ばかも多少あり)。もちろん、父べったりの娘なので、父親というものに対しての思いが同化したのかもしれないし、父が死ぬというその部分に、より強い刺激を受けただけなのかもしれない。

4のみで終わるかと思われていた作品に深みを与えてすべてを成功に導いたのは、ILMの技術やルーカスの才能、ベン・バートの編集などによることをご存知の方も多いと思う。特に意志のみで最初の作品を作り上げたルーカスとそれを許容したアラン・ラッド・ジュニアの功績はこうして歴史をかんがみるに特筆すべきものである。ただ、バトルやVFXなどの技術はあくまで、内容を表出させる手段であって本質ではない。本質に深みを与えたのは、登場人物の心理のうつろいであり、アナキンの人生そのものであることは間違いない。(無論、最初の作品ではハリウッドらしく、心理よりも現実的なわかりやすい危機を中心にすえてはいるのだけれど)

ついつい視覚的なものにとらわれてしまいそうなシリーズのなかにある本質にちかづいたことは、娘のもつ勘の成果なのだろう。このあと、1-3、すなわち「なぜアナキンがベイダーにならなければならなかったか」を彼女はみることになるのだが、それこそ号泣が予想される。私は劇場で大粒の涙をぼろぼろ流した。娘をしっかり鍛えたいと思う。

ついでにかいておくと、講義の準備をしながら音楽の力をいまさらながら痛感した。私は、たとえそういう映画の音楽に携わることがないのかもしれないけれど、作曲家でよかったと思った。コミュニケーションが得意なほうではないし、仕事も悲しくなるくらいないのが現状なんだけど。それでも、音楽を言葉として使えることがうれしい。今回はただ音楽に感動して泣いた。ことに「ファントム・メナス」の最後の最後に流れる(スタッフロール)アナキンのテーマとその後のベイダーの息の音、それだけで映画の間まったく流れなかった涙がぼろぼろでてきた。ウィリアムスの音楽は、新三部作になってからずっと円熟している。表面的な印象でなく、ブラームスのごとき重厚な深みがある。

私にも映画音楽を書く機会がふたたび訪れることを切に願おうと思う。

スピルバーグは子供のころみた「白雪姫」が怖かったといっていた。娘は10歳でみた「SW」体験をどのように活かしていくのだろうか。


ここにかくのもひさしぶり [生活]

しばらく、某SNSばかりにいっていたもんで、こっちの存在を忘れていた。ていうか、パスワードすら忘れていた。
体にけっこーなガタがきているようで、あちこちへんだ。手術で年末年始と10日ばかり入院もした。よる年波ってやつか、更年期なのか・・(ことし50歳です)。

今年は、しっかりでかい作品をしあげたいものですな。
写真は病院からみた初日の出。

ときに年末年始に入院するっていうのは、非常にいいものだと実感。
だって、何にもしなくてもいいんだもーん。何しろ静かだしね。
誰にも言わないで入院してたから、邪魔はまったくなし。見舞いもこない(家族すらこない)。
定時に食事。定時に就寝。テレビの特番をチラ見して、本をひたすら読むもよし。やりかけてたものももっていったんだけど、家族に邪魔されないから、集中力抜群。こんなにすすんでいいのかっていうくらい進んだ。スケッチも論文も進む進む、がんがんすすむ。疲れたら、そのまま眠ってしまえるしね。パジャマでうろついていて普通な生活。けっこう中身が重たい本も、論文集もじっくり読めた。術後の痛みも痛み止めで、そんなに痛くはない。
当然、毎年の年末恒例の家事にも手をつけず、年賀状は退院してから。
正月気分はまったくなかったけれど(テレビをみてるとなんとなく正月)、とにかく優雅に落ち着いた。

でも退院して帰ってくると、まったく仕事に集中できない。落ち着かないんだよな。

2006年に生まれた息子があばれまくるし、小学生の娘は踊りまくり、歌いまくるし・・。
「うるせーーーーっ」てどなると、泣き出すし・・。

なによりも、現実が突然やってくる。お金が・・・。入院費が・・、手術費が・・・。去年は確かに例年よりずっと収入が少なかった。悠長なこといってられない。
今年は細かい仕事も探してこなければならないな。自由業をやめて定職をさがそうかと考え込んでしまった。このままだといずれワーキング・プアになることは間違いない。
客観的にみれば、いまもフリーターみたいなもんだ。

退院してからのがずっと病気な気分だね。



ぼろぼろになっちまうぜ、今年の風邪 [生活]

風邪かインフルエンザかわからない状況に、ついに花粉症が発病。これだけはかかるまいと心に決めていたのに・・。しかも、疲れと不摂生がたまりまくっていたもんだから、この数日は死ぬ思いで苦しんでいた。食欲まったくなし。ただ、チョコレートパフェを異常に食べたいという子供じみた切望が日に日に増大していたんだ。
そういうわけで、少しだけなおった今日はチョコレートとアイスクリームをたべましたぞ。
今年の風邪はきつい。何日も腹痛と下痢が続く。熱はそうでもないんだけれどね。
CDのDBは調子よくなってからやることにしよう。
もうしばらく復調には時間がかかりそうだ。


珈琲づけ [生活]

眠い、とにかく眠い。爆ネムである。
日中の講義中にもあやうく眠ってしまうところだ。
教えている本人が寝てしまっていいのか。

眠気覚ましにと日記をかくことにした。

睡眠時なんちゃらかんちゃらかと思えるくらい、突如、眠気が襲う。頭痛もあり。もしや白血病かと・・・根拠なし・・・、ちょっと悲劇的になってみたが、単に睡眠不足だとみんなにいわれてしまった。
昨日もコメントをかき、日記をつけようとしたが、あまりの眠さに閉じてしまって、そのまま遠い世界へいってしまった。かくんと首が後ろにおちて、目がさめた。あれで鞭打ちになる人はいないのだろうか。けっこう衝撃がくるよね。

そこで、珈琲づけである。締め切りまであと十時間ほど。
だが、毎日数十杯ものんでいるのに、さらにそれ以上のんで、効果があるものだろうか。ブラックあんどブラックガムも効かない私だぞ。でも飲む。ひたすら飲む。がんがん飲む。

こういうときは、シャワーを浴びるか。受動的なことはいけない。能動的に何かをして目覚めなければ。珈琲のシャワーをあびたら、どうなるのだろうか。臭うのはとにかく、なにかしら、効果が期待できるのだろうか。
シャワーヘッドにカートリッジをさして、挿入型カフェイン使いきりタイプとか、
ユーカリオイル一日有効とか、ミントシャワーすっきりさわやか三時間とかできないものかな。ミストタイプでもいいぞ。お風呂で森林浴とかね。

魔法使いにでもなれればいいのにと思ってしまった。
ガンダルフはかっこいいよな。

ねぇ、みんな。

魔法使いと
超能力者と
すごいマジシャン
呪術師
ならどれになりたい?

シャワー浴びることにする。


トイレではなぜか考え事がはかどる [生活]

自分が今どれだけのことを懸案事項にしているのだろうかと、そのへんの紙にかきだしてみた。
・仕事のこと
・生活のこと
・子供にたのまれている買い物
・買おうと思っているもの
・明日のおかず
・掃除
・旅行
・明日の講義の内容
・今度のもうとしている酒・・さくらさんのコメントを読んでいたら、焼酎を飲む気になったので、何をかおうか調べている。

カテゴリわけするとたいしたことないのだけれど、細かくみていくと、そりゃまぁ、あるわあるわ。このブログだって日々の懸案であるわけだしね。
やらなきゃならないことって、たーーーくさんあるんだなと実感。日々そのタスクをこなしているわけだ。これが人生ってやつかなと思いながら、トイレに入った。そして、OL進化論を少し読んで、いろんなことを考えていたんだ。ところが、それから、トイレで人生について悟り始めたからもう大変。
日曜・・そんなのは私には関係ないのだけれど・・の午後をじっくりとトイレですごすことになるとは・・。
 で、何を考えていたのかっていうと、もちろん、上記のようなことをマルチに際限なく考えてはいるんだけれど、その中で、人生と野球の相関関係について一番長い間考えた。

 野球は「筋書きのないドラマ」と解説者たちは判でおしかのごとく、いうのだけれど、おおきくパターンがあって、それはそれで、落着している。もちろん、細かいイベントには無限に近い可能性があるのだれけれど、ルールがあるから、どこかに歯止めがかかっているんだ。
 さて、それでね。先ほどの話とこうつながるんだ。
野球は、基本的に9回まである。
もし、人生を9回までに換算してみるとどうなるのだろう。人生70年として72歳までを9で割ると8年で、表裏、すなわち、一回が終わる。
この8年を4年単位にして、さらに表と裏にわけるんだ。すると、生まれてから4歳までは1回の表、8歳のでが一回の裏、12歳までが2回の表ね16歳までが2回の裏・・・・という感じ。これを自分の人生にすかっとあてはめてみると、おもしろいように別れる。表は守りに必死で、トラブルだらけ。どうやってここをしのぐかという人生を送っているんだけれど、裏になると俄然イケイケ攻撃型になっている。
だから、私は裏の攻撃を選んでいるホームチーム型の人生といえる。
もちろん、72年で終わるかどうかはわからないけれど、あまりに符合するから、びっくりだ。それ以上生きた場合は延長戦。それ以内に死んでしまったら、コールド負け?・・んなことはないか。でもね、こうして考えていくと、なにか心の準備ができてくる。これからどうやって残りの人生をすごすかとね。好奇心からいろんなことに手をつけてきたけれど、むだな動きや必要のなさそうなものへの投資はできるだけ避けなきゃならない。DVDだって、一生の間に一度みるかどうかってものを買ってもしょうがないよ。それより、何かをつきつめていく時期にやってきている気がする。
今、私は6回の裏にいるんだけれど、7回から別のセットアッパーをださなきゃいけないなと思っているわけ。なんとか、終盤の抑えの切り札・・あれ、まてよ、万一、8回までにリードしていたら、9回の表を抑えたらおわっちやうじゃん。ま、人生では、X勝ちはないってことにしといて・・(^^;
9回終了以降はゲーム後ののんびり期間ってことにでもしとこう。

ま、いままで、各回の表に、めちゃくちゃうちこまれてきたから、これからもそうなるのかもしれない。入院も手術も離婚もリストラも、失業も、失敗も、事故もすべて表にあった。だからこそ、浮き沈みのバランスからいって、逆転サヨナラもできるはずたねぇと思ったりして含み笑いをしている。人生を客観的に眺められるとはなかなか豪気。

ついでに、いままでの人生をふりかえりつつ、出会った人々のことも思い出してみた。ろくでもないやつも結構いたけれど、もう一度会いたい人も多い。やっぱり、印象的な人たちとは、裏にであっている。つまらない人たちやトラぶった人とは表に何かあるよな。
裏表関係なく、ちょっと好きになった女の子も数知れず、どうしているのかなと思ってしまう。その中の数人とは、いまだに文通やメールでやりとりしている。不思議な門で、深くつきあった人ほどまったく消息が消え去っているものだね。

こうして思い出されていることを、当然本人はしらないだろうけれど、年賀状や同窓会の案内も多いこの時期は、私もどこかで思い出されているのかもしれないな。みんなにいい思い出になってもらえるような人になりたいものだ。

トイレでは、いろんなことが次々と頭に浮かんでくるんだけれど、お尻がしびれるのも忘れてこれだけ考えることができれば、それはそれでおもしろい。
もひとつ、次の作品の着想もみつかって、今日のトイレはるんるんである。
しばらくは仕事も楽しくなりそうだ。

なお、先日来ひっかかっていたあの憂鬱な仕事は、さきほど片付けてしまった。これもまた、トイレの効能といえるかも。一気にやっちまったのさ。

ふふふ・なんか、いい感じ。


成長とともに失われていくもの [生活]

大掃除が始まった。はじめたのではなく、始まったのだ。世間の大掃除渦に私も巻き込まれてしまったようだ。ま、ちょうど仕事も一区切りついたことだし、すっきり掃除もいいなと、机の上やまわりの目に付くところから、まずものの移動を始めた。

私は捨てられない族である。なんでもとっておきたがる習性がある。子供のころのアニミズムのせいだと思っている。すべてのものに魂が宿っているようなあの感覚だ。

「ちゃんとつかってあげないと消しゴムちゃんがかわいそうでしょ」というようなことをご幼少のみぎりに言われ続けていたために、自分の人生に絡んだものはもとより、雑誌や新聞にいたるまで、すぐに捨てることができない。彼らの役目や存在意義についてまで考え込んでしまったりする。ものの誕生から消滅にいたるサイクルを哀れんでみたりもするのだ。

そういうわけで、私の部屋は「ほとんど使われた形跡がないもの」でごった返している。もちろん、鼻をかんだティッシュとかはちゃんと捨てているから、ごみためとは思っていない。第一、食器の後片付けと食器洗いについては人一倍うるさい方だ。でもメモ用紙・・すでにメモが書かれている・・はなかなか捨てない。

さて、そういうわけで、掃除が始まったのであるが、早々に発掘されたものにつかまってしまった。

私の子供が一歳のころに書いた絵である。

単純な曲線とか直線とか小さな○とかの組み合わせで顔を現していたり、風景やものをあらわしたりしている。じっくりみているとなんと味わい深いことか。

スキャナがあれば、とりこんで、お見せしたいくらいだ。・・親ばか・・

絵をみているとそのころの子供の様子がじわわわわっと思い起こされて、しばし子供の成長、そして、いい父親なのだろうかという疑念、さらには、これからの不安や希望が脳裏にスライドショーされていく。結婚式の日にこの絵をもう一度みたら、泣いちゃうんだろうな。(けっこー涙もろい)。しかし、なんだなぁ。子供もかわっていくものだよなぁ、最近は生意気なこというしね。少し前までは話しをしていておもしろかったんだけど、ここ数ヶ月、むかっとくることも多くなってきた。なにしろ、ああいえばこういう・・・。記録を残しておいて、語録でも作ろうかな。

私はたぶん、普通一般の父親よりもわずかな時間子供とであった時間が早いはず。なぜなら、私が産婆さんとともに取り上げたから。だから母親よりも先に自分の子供と対面している。

へその緒が首にまきついていて大変だったし、紫色の顔が見る見るうちにあかくなっていくのをしっている。最初にお湯につけたときの微妙な表情もよく覚えている。小さなころは蛙のように、私のおなかの上に腹ばいのようにして腕と足をまげてよく寝ていたこともなつかしい。手のひらの上にのせて上下していたこともある。ちいちゃかったんだな。生まれてくる生命とその後の成長を目の当たりにしてきたから、よけいに思い出がたくさんある。

今もなお、自由業であるからして、子供と接する時間は、一般的なお父さんよりはるかに多いし、朝ごはんも夕ご飯も一緒にたべている。子供は、自分が父親の血をひいていることに喜んでくれているが、いつまでよろこんでいられるものやら・・。

そういえば、今年は子供の写真をあまり撮らなかった気がする。小さいころはほんとによく撮っていたけれど、やはり、学校にいくようになってから、イベントでもないと写真を撮らない。

こりゃあとで後悔しそうな気がする。さっそく冬休みは子供とどこかにでかけたりして、写真をとりまくろう。語録も残そう。できれば録音もしよう。

子供が子供であったことを忘れないためにもね。私は自分が子供であったことをときどきすかっと忘れている。もっと子供と話をしよう。雑談でいいから、ばかな話でもりあがるようにしよう。勉強の話や学校の話じゃそりゃ、いやがるよな。私だって、仕事の話を家庭ですることないし、聞かれても適当にごまかしちゃう。もっと共通の話題でもりあがろう。

今日のご飯のあじつけについての実験を子供とやってみるとか・・、二人で一緒に何かやることが基本だな。恋人よりももっとなかよく。

だってたぶん、世界で一番愛しているから。

やっぱり、結婚式のときは泣きそうだな。

子供の成長は、私の感性をなくしていくことにつながるのだろうか。ま、一緒に育てば・・自分も・・それでいいのかも。

ま、子供は大きくなっていくのがあたりまえ。たぶん、ほとんどのお父さんも感じていることだと思うけれど、ときおり、本人が昔にもどれるように、私も記録をまめにとってやることにしよう。


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