2014年だったね・・って、一年ほったらかしてたわけかー! [探索]
CDが悲惨な状態に! [音楽]
年月を経た生CDなら、表面に書いたラベルがにじんでいく。しかし、購入したCDでここまで悲惨になるとは!
もちろん光学メディアには寿命があるのは知っている。だが、これはケース内に緩衝材として封入されていたスポンジ(ウレタン)のしわざ。
CDにはりついて、浸食。レーベル側を溶かしていた。
スポンジもぼろぼろになっている。
悲しい。
データやコンテンツは早めにとりださなければ。
アナログテープやビデオもコンバートしとかないとまずいわ。
でハードディスクもバックアップとって…。どこまでやればいいんだろ。
クラウドも万一のとき当てにならんしなー。
今は・・2013年だったね。 [雑感]
数年、身の回りにいろんなことがおきて、ブログなどとても書く余裕などなかった。先日の誕生日を機に少し気持ちが前向きになってきたので、再びブログをつらつらと書いて行こう。
まぁ、音楽家には精神的苦痛や窮乏はつきものなので、気にしてはいけない。悲観的にならないことだ>自分。自分は常に「自分」であること。
さて、今日の本題だ。
今年は私にとって非常に重要な年であるはずだった。若い頃から2013年5月29日に「春の祭典」を指揮するというのが夢だったからだ。
Igor Stravinsky作曲で現代音楽の要となった作品「春の祭典」は、1913年5月29日にニジンスキーの踊りによりシャンゼリゼで初演された。そのときの騒動はいまなお語り継がれている。高校一年の初夏にこの曲に出会って、私は音楽家になることを決めた(よくない選択だった)。勉強しなくなって、スコアばかり読み耽りだした。そのスコアは1992年の4月25日に東西線の大手町駅で紛失してしまった。悲しかったなぁ。すぐに第二世代のスコアを買ってきた。私の座右の書であり、常に鞄の中にはいっている溺愛の作品だ。
そういうわけで、この曲を指揮する夢を実現すべく一昨年からいくつかのオケに打診してきたが、なしのつぶて。なので期待するわけにもいかない。まあ、夢は夢として妄想の中で育てよう。どこかで機会に出会えるとうれしいな。
1913年はDebussyが「遊戯Jeux」を発表し、「春の祭典」とともにエポックメイキングな曲として名高いShoenbergの「ピエロ・リュネール 月に憑かれたピエロ」も初演されている。この1910年代はオーケストラ作曲家にとっては夢のような時代だが、ときは第一次世界大戦の勃発から終焉にいたるころでもあり、世の中はそんなに明るくなかったと思う。1910年はStravinsky「火の鳥」。後年手塚治虫氏がインスパイアされて同名の作品を書いた。1911年は「ペトルーシュカ」、1912年はRavel「Daphnis et Chloeダフニスとクロエ」。1914年にはホルストが「惑星」を出している。この1910年代、J.R.R.トールキンは「ビルボ」や「指輪物語」を生み出すきっかけとなった冒険旅行をしている。
今年はVerdi、Wagnerもアニバーサリーイヤーである。無論、さまざまな作品があちこちで上演される。まだ、私はオペラや楽劇にははまり込んでいない。もっと老いてからの楽しみだ。
今年は「春の祭典」の自筆譜ファクシミリも出版される。たぶん、論文や研究も発表されるだろう。在野ながら、私も読み解いてみたいと思っている。またいずれ、成果についてここに記すことができるだろうと信じている。
ベイダー卿へのオマージュ 1 [生活]
わずかな収入源である非常勤講師をしている学校で、「シナリオ・演出」の講義をしている。先週から3回にわけて、StarWarsシリーズの分析と解説をおこなっている。話をするのにも、限られた時間でどこをどう教えるかを選択するためにも、今一度シリーズをみなおさなければならないということで、全六作および、メイキングを全部二度ずつみて、しかも、脚本も読んだ(ネットでみつけた)。
父の影響をもろにうけたのが小学生の娘で、私のあとを追って、まずは1977年に始まった3部作を、毎日一作ずつ、ヘッドフォンをして一人で寝る前に見ていた。月曜に4.火曜に5、昨日はなしで、今日は6をみていた。
その娘がさっき涙をぼろぼろ流しながら私の仕事場にやってきた。
「おわった・・」
「どうした?」
といったら
「ダースベイダーがかわいそう」といってわっと泣き出して、だきついてきた。
非常に感受性の強い娘ではあるのだが、一人で世界に浸って4-6を見終わったことはたいしたものだと思う。こわかったり、つらかったりして見たくない場面も多いはずだ。集中してみていたから、世界にはまりこんでしまったのに違いない。
しかしながら、4-6を見た段階で、この作品のメインテーマがただの「勧善懲悪」でないことに気づいて涙を流すとはおそれいった(親ばかも多少あり)。もちろん、父べったりの娘なので、父親というものに対しての思いが同化したのかもしれないし、父が死ぬというその部分に、より強い刺激を受けただけなのかもしれない。
4のみで終わるかと思われていた作品に深みを与えてすべてを成功に導いたのは、ILMの技術やルーカスの才能、ベン・バートの編集などによることをご存知の方も多いと思う。特に意志のみで最初の作品を作り上げたルーカスとそれを許容したアラン・ラッド・ジュニアの功績はこうして歴史をかんがみるに特筆すべきものである。ただ、バトルやVFXなどの技術はあくまで、内容を表出させる手段であって本質ではない。本質に深みを与えたのは、登場人物の心理のうつろいであり、アナキンの人生そのものであることは間違いない。(無論、最初の作品ではハリウッドらしく、心理よりも現実的なわかりやすい危機を中心にすえてはいるのだけれど)
ついつい視覚的なものにとらわれてしまいそうなシリーズのなかにある本質にちかづいたことは、娘のもつ勘の成果なのだろう。このあと、1-3、すなわち「なぜアナキンがベイダーにならなければならなかったか」を彼女はみることになるのだが、それこそ号泣が予想される。私は劇場で大粒の涙をぼろぼろ流した。娘をしっかり鍛えたいと思う。
ついでにかいておくと、講義の準備をしながら音楽の力をいまさらながら痛感した。私は、たとえそういう映画の音楽に携わることがないのかもしれないけれど、作曲家でよかったと思った。コミュニケーションが得意なほうではないし、仕事も悲しくなるくらいないのが現状なんだけど。それでも、音楽を言葉として使えることがうれしい。今回はただ音楽に感動して泣いた。ことに「ファントム・メナス」の最後の最後に流れる(スタッフロール)アナキンのテーマとその後のベイダーの息の音、それだけで映画の間まったく流れなかった涙がぼろぼろでてきた。ウィリアムスの音楽は、新三部作になってからずっと円熟している。表面的な印象でなく、ブラームスのごとき重厚な深みがある。
私にも映画音楽を書く機会がふたたび訪れることを切に願おうと思う。
スピルバーグは子供のころみた「白雪姫」が怖かったといっていた。娘は10歳でみた「SW」体験をどのように活かしていくのだろうか。
ここにかくのもひさしぶり [生活]
しばらく、某SNSばかりにいっていたもんで、こっちの存在を忘れていた。ていうか、パスワードすら忘れていた。
体にけっこーなガタがきているようで、あちこちへんだ。手術で年末年始と10日ばかり入院もした。よる年波ってやつか、更年期なのか・・(ことし50歳です)。
今年は、しっかりでかい作品をしあげたいものですな。
写真は病院からみた初日の出。
ときに年末年始に入院するっていうのは、非常にいいものだと実感。
だって、何にもしなくてもいいんだもーん。何しろ静かだしね。
誰にも言わないで入院してたから、邪魔はまったくなし。見舞いもこない(家族すらこない)。
定時に食事。定時に就寝。テレビの特番をチラ見して、本をひたすら読むもよし。やりかけてたものももっていったんだけど、家族に邪魔されないから、集中力抜群。こんなにすすんでいいのかっていうくらい進んだ。スケッチも論文も進む進む、がんがんすすむ。疲れたら、そのまま眠ってしまえるしね。パジャマでうろついていて普通な生活。けっこう中身が重たい本も、論文集もじっくり読めた。術後の痛みも痛み止めで、そんなに痛くはない。
当然、毎年の年末恒例の家事にも手をつけず、年賀状は退院してから。
正月気分はまったくなかったけれど(テレビをみてるとなんとなく正月)、とにかく優雅に落ち着いた。
でも退院して帰ってくると、まったく仕事に集中できない。落ち着かないんだよな。
2006年に生まれた息子があばれまくるし、小学生の娘は踊りまくり、歌いまくるし・・。
「うるせーーーーっ」てどなると、泣き出すし・・。
なによりも、現実が突然やってくる。お金が・・・。入院費が・・、手術費が・・・。去年は確かに例年よりずっと収入が少なかった。悠長なこといってられない。
今年は細かい仕事も探してこなければならないな。自由業をやめて定職をさがそうかと考え込んでしまった。このままだといずれワーキング・プアになることは間違いない。
客観的にみれば、いまもフリーターみたいなもんだ。
退院してからのがずっと病気な気分だね。
しばらくぶりだ
こないだ書いてから4ヶ月以上の時間がたって、すでに冬を間近にしているね。
何かと雑用もあるけれど、特に書くべきネタがなかったら、どんどんと遠のいていくものだ。
今日は、相変わらず「携帯」の音を作っていて、まもなく〆切がやってくる。私は変わらぬ日常だが、子供は着々と成長し、すでに反抗期の芽生えを感じるよ。
この数ヶ月で急に年をとった気がしている。疲れもひどくなったし、毎日どこか加減が悪い。
それなりに体の不調ともつきあわなくては50代は生きていけないのではないかなと思うようになった。
もう少し作品作りに集中しなきゃ。
ま、なにかしら転がっているネタを見つけたら書くことにしよう・・自己満足・・
ブログにはそういう側面もあるのだろうよ。
さて、乗り切れるのか [雑記]
音楽を仕事にしていると、今年のような状況はよくやってくる。すなわち、貧。日々の生活をしのぐことが最優先である。生活はなんとかバイトで稼ぐ小銭で。毎月給料がやってくる人々がときにうらやましくもある。ま、自分で来た道だからしかたないけどね。ま、ブログをかけるくらいだから、まだゆとりはある。そのうちなんとかなるだろう。
しかし、今年は携帯の世代交代のせいもあってか、仕事が減ったなぁ。
この夏は特にきびしい。住宅ローンが払えるのだろうか。
愚痴っぽい半年を過ごしてきたが、さらにそうなりそうだ。
世の中には、芸術を仕事にしようとして、生活苦のためにそれをやる時間がない同類がどれくらいいるのだろう。
夢に向かってあきらめずに突き進むことを「最上」とした信念はどこへやら。
妥協と諦観は、人生を普通に生きるための知恵であるね。
映画と原作 [雑記]
ここに映画とその原作の本があるとする。
どっちから先にやっつけるか。
私は最近まで、まず原作だろうと思っていた。しかし、両方とも楽しむためには、映画から見るのもありのような気がする。
どう映像化するのかよりも、どう書かれているのかの方がおもしろそうではある。しかも、原作を深く知ればしるほど、映画での解釈と自分の解釈にギャップが生じる。
しかし、映像を先にみてしまうと、想像力が働かなくなってしまう・・一種のサウンドトラック効果・・ことも十分に考えられる。リアルな擬似記憶として脳に残っている映像を原作を読みながら参照してしまうのだ。
これって、もともと映像化を目的とせずに単独での作品として生きていた原作の、間違った読み方ではないかと危惧してしまう。やはり、間違いか。
この疑問を妻になげかけたところ、妻は、原作という存在と映画からノベライズされた小説について比較しはじめた。もちろん、この比較は直接的には先ほどの疑問に答えてはいないが、ノベライズ作品が私にとっていかにつまらなかったかという過去を思い出すと、先に映像をみることへの危惧がますます増大する。
もっとも、ノベライズ作業は、リアルタイム視覚・聴覚の情報を文章に書き落とす作業であるから、リズムやテンポを落とさないようにするためには、かなりのものを犠牲にしなければならないはず。しかも、描写を増やさなければならないから、形容詞や副詞が溢れるほど存在しそうだ。特に映画を見た後ではキャラクタの生き様も、何かむなしいマスターベーションをみているような感じさえうける。よい原作は、無駄を省きまくってリズムやドライブ感を生み出し、読者の想像力に巧みに訴えていく術を宿している。
スティーブン・キングの小説作法を読み進めると、悪文に関する定義めいたものが往々に出没するが、ノベライズ作品にはそれが溢れている。
さて、ここに「薔薇の名前」の原作とDVDがある。そして、作者(ウンベルト・エーコ)の書いた資料集も。
私はどれから手をつけるべきだろうか。